宮ヶ瀬ダム
神奈川県の北西部、丹沢山地と相模平野の境目あたりに「宮ヶ瀬ダム」は在る。
このダムによってできた人造湖である宮ヶ瀬湖は、4.60 平方キロもある大きなもので、東京都心から約50km、横浜や川崎の市街地からでも約40kmという近さの場所にあるわりには異例ともいえる規模の、名実ともに首都圏最大のダムである。
私が幼少の頃、三才から六才までの3年間を、父の仕事の都合で宮ヶ瀬で過ごした事があったので、小学校の入学を控えた私等兄妹が母と一緒にこの地を離れて会津に戻った後も、このダムの建設については無関心では居られなかった。
もっとも、住んでいたとはいっても遠い昔の事でもあるし幼い子供の頃の事でもあるから、宮ヶ瀬での暮らしについてはそれほど鮮明な記憶が残っているわけではない。
ただ、大きな橋のたもとに住んでいて、橋の反対側にある雑貨屋に十年玉を握りしめてよくチョコレート菓子を買いに走って行った事を覚えている・・・
でも、その後も父はずっと宮ヶ瀬で仕事を続けていたので、私が成人になってからも何度か宮ヶ瀬の父の許を訪れた事はある。
この地にダム建設の計画が持ち上がってから、実際に建設が始まり、今に至るまでには計りしれないほどの困難と関係者の苦労が有った。特に水没する旧村274の全世帯の不安と不満は、とてもことばでは言い表す事はできない・・・
湖底に沈む前の宮ヶ瀬の集落 中央に宮ヶ瀬小学校が見える
やがて「宮ヶ瀬」の名前はダムとともに悪い方の意味で有名になり、一人歩きを始めて行く・・・
「ムダなダム」の代表みたいな扱いで、各方面でよく引き合いに出されたりもした。
しかし、本当に宮ヶ瀬ダムは巨額の金を使って自然を壊し住民に犠牲を強いただけのムダなダムだったのだろうか・・・
1982年後半から水役者の移転が始まり、1989年にはダム堤体工事に着手。1995年から試験湛水が始まり、1998年6月には「宮ケ瀬湖」は満水になった。
1996年12月、移転者に対して生活再建実態調査が行われ、この調査で移転後の居住地の感想を「良くなった」と評価している者は84%だったと報告された。
また、芝生広場にある高さ28mの自生のモミの木は、今や「日本一のクリスマスツリー」として年末には多くの観光客を集めている。
湖畔の自然を再生し守る一方で、商業地域と住宅地域とをきちんと区画し、乱開発を避ける努力はしっかりと行われた。
周囲には多くのレクリエーション施設や土産店、飲食店等の観光施設も作られた。
都心から日帰り圏に在るという立地を活かして、完成したダムを観光の目玉にと積極的にPRして現在に至るが、宮ヶ瀬の在る清川村の歩んで来た歴史と政策、そして関係者の努力はある程度評価されても良いようにも思うのだが・・・
多くの方の、様々な思いを他所に、宮ヶ瀬ダムは今日も満面の水を静かに湛えている・・・
http://www.town.kiyokawa.kanagawa.jp/sankan/map_miyagase.html
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コメント
ピーターパンさんこんにちわ~
お休みですか~? 宮ヶ瀬ダムの記事を面白く
読ませて頂きました~
ご幼少(ヨイショ!)の頃にお住まいだったとは
縁というものを感じます
宮ヶ瀬ダムの底に沈んでしまった場所には素晴らしい
レジャーポイントが沢山あったのですよ~
ヘッドハンティング(自称)でこちらに越して来てから
よく遊びに行ってました 大自然の風の音 水の音に
感激したものです 特に夏場は川原でのバーべキュー
等思いっきり楽しめたものです
沈んでしまうと知ったときには残念で堪りませんでしたね~
今ではちょっとした観光地化されてしまい商売ッ気の
方が強くなった様に思えます
ソバやうどんが美味しいお店には今でもちょくちょく
出かけています
クリスマスツリーの時期はね~ 仏教徒なので(爆笑)
投稿: タマパパ | 2006年9月17日 (日) 12:57
パパさん、どうもです (^^)/
やはりこの辺の土地柄についてはご存知でしたか(笑い)
でも、沈む前の村の事をご存知とまでは思いませんでした (^^ゞ
私がこの村にかかわったのはホントに子供の頃でしたけれど、10歳下の弟は小学校の低学年から中学に入るくらいまでを家族と共に宮ヶ瀬で過ごしていますから私なんかよりも思い入れはあるんじゃないかと思います。もちろん沈んでしまった小学校にも通いましたし、親しい学友も何人か居たはずです。
今度ソバの美味しい店をご紹介下さいね~ ( ^-^)/ ♪
投稿: 夢見るピーターパン | 2006年9月17日 (日) 13:47
こんばんは^^
残念ながら、関東方面の地理には疎く、余り知らないですが
消えて行った物には、郷愁がわくでしょうね。
ボクに取って、消えていった物というと、神戸の震災で
消えた、多くの思い出です。
早朝から、同僚の安否確認に走り回り、子供の頃より
見慣れた風景が、燃え行く空しさ。
あの日の事は、書くには多すぎる。
投稿: 光頭山人 | 2006年9月17日 (日) 19:07
こんばんわ~
1,17 あの日の私はいつもの様にいつもの道を仕事場に
向かっていました いつもこの時間に聞いているNHKラジオ
から流れた第一報は比較的静かなものでした
あたりはまだ真っ暗で被害の様子が分からなかったのでしょう
やがて明るくなり始めるとともに悲鳴にも似た情報に変わって
いったのです 我々にはどうするすべも無くただ見守るだけ
でした
投稿: タマパパ | 2006年9月17日 (日) 20:44
ポンポコさん(でイイのかな (^^; )、どうもです (^^)/
神戸の大震災・・・あの日の事は私もよく覚えてます。朝のテレビではどこも件の映像を流していました・・・
Nifty の会議室でもその話題で持ちきりでした (__;)
宮ヶ瀬の場合は人為的に、神戸の場合は自然災害と形は違いますが、どちらも故郷の姿が大きく変わったという点では同じかもしれませんね。
おっしゃるように、大切な思い出を失う辛さ、悲しさは、簡単にことばにできるものではないと思います。
投稿: 夢見るピーターパン | 2006年9月17日 (日) 20:50