風車の弥七の墓
先日、栃木県の那須烏山市から水戸市へと向かう途中、国道293号線を走っていると、思いがけない立て看板を見つけて、思わず車を止めてしまいました (^.^ゞポリポリ
その看板には、大きな文字で「風車の弥七の墓」と書かれているじゃありませんか (^^;
え~、弥七ってドラマの役の名前なんじゃないのぉ・・・ と、思い、行ってみる事にしました(笑い)
だって、架空の人物のワケでしょ、きっと水戸黄門のドラマのロケかなんかでこの地にやって来て、その流れで弥七のモニュメントかオブジェでもあるのかもしれないと思い、せっかくですからその「墓」と呼ばれるモノの正体を見てみたいと思い、車をそちらの方に向けたわけですよ (^_^ゞポリポリ
どうせ、急ぐようなドライブではありませんし、交流戦の始まる18時くらいまでに帰り着けば良いという事で・・・(苦笑)
車は、国道を離れ、タンボのあぜ道のようなところから、ドンドンと山の中へ・・・ (^^;
道路は狭く、民家も少なく、心細い思いをしましたが、道々には写真のような案内板が立っていたので迷うような事はなかったとはいうものの、この案内板、ちっとも統一されていないのはなぜ (?。?)
わざとなんでしょうか、それとも何か理由があるんでしょうか・・・
個人的な意見では、同じモノを並べた方が見つけやすいし、アピール度も上だと思うんですがねぇ・・・
こういうのを見ると、いかにも急造的なその場しのぎの感じを受けるので、この「お墓」もでっち上げの感が否めません。
もちろん、弥七というのは「水戸黄門」というドラマの中に登場する架空の人物なワケですが、この弥七にはモデルとなった実在の人物が居たというのがこのお墓のいわれです。
その人物というのが、お墓の脇に置いてあったパンフレットによると、松之草村の小八兵衛という忍者であり、このお墓は小八兵衛のモノだそうです。
そこで、テレビドラマを見た住民たちが、弥七は小八兵衛の事ではないかと言いだし、「風車の弥七の墓」として積極的に売り込む事を決めた・・・
しかし、そこまでやる必要が本当にあったのか・・・
「風車の弥七の墓」ではなくて、風車の弥七のモデルとなった「小八兵衛の墓」で良かったのではないだろうか・・・
これでは、弥七が本当にいた人物という事になってしまわないか・・・
私には、史実を歪める愚行にしか思えないのだが・・・ (__;)
しかも、「小八兵衛の墓石」の脇に「弥七の名前の標柱」まで立てちゃって、これじゃ知らない人はこの標柱を弥七の墓石だと勘違いするんじゃないのかな (^^;
それが証拠に、標柱の周りに花まで供えられているじゃない (^^;
小八兵衛と、その妻であるお新の墓に挟まれて立っていた「常不尊菩薩(釈迦如来)」の像です。
まぁ、思いがけずおもしろいモノを発見させていただき、けっこう楽しませて頂きましたよ (o^∇^o)ノ
思っていたのよりもずっと綺麗でマトモな史跡でしたし、駐車場も比較的広く、併設されているトイレなどもしっかりと手入れが行き届いていて好感が持てました。
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コメント
まったく同感です。
時代劇ブームに便乗した悪のりの域でしょうね。
これでは、小八兵衛さんが浮かばれない。
しかも、うっかり八兵衛の正体だったりして。
投稿: むうさん | 2008年5月26日 (月) 19:09
むうさん、どうもです (^_^)/
>しかも、うっかり八兵衛の正体だったりして。
わはははは (^◇^) ・・・
座布団をどうぞ~( ^^)/◆
投稿: 夢見るピーターパン | 2008年5月26日 (月) 19:22
風車の弥七は、北茨城市華川町の車城の城主、車丹波義輝の弟善七とされてます。詳しくは常陸佐竹新太平記「関谷亀寿薯」の215ページ参照下さい。忍者ではありません、猛将義輝は反徳川(佐竹側)車丹波(義輝)は処刑され、善七は将軍秀忠の命により江戸城下非人5000人の頭となり将軍家に尽くしたとある。
投稿: 森のきこり | 2009年9月14日 (月) 00:03
森のきこりさん、どうもです (^_^)/
わざわざご丁寧に、ありがとうございます m(_ _)m
たいへん、参考になりました。
投稿: 夢ピ | 2009年9月14日 (月) 06:18