明と暗
「脳死は一般的に人の死」と位置付け、臓器提供の年齢制限を撤廃し、本人が生前に拒否表明していなければ家族の同意で可能になる改正臓器移植法が、13日午後の参院本会議で可決、成立したと報じられた。
おそらく、世の大勢は、これで救われる命が増えると単純に喜んでいる人がほとんどなのではないか・・・
不治の病や移植以外に治療の方法もない難病に苦しむ人たちにとっては、なるほど「朗報」であり、これでやっと治療への道筋ができたと喜ぶのもわからないでもない。
これが、タイトルでいうところの「明」の部分であり、確かに評価に価することなのかもしれない。
しかし、光のあるところには必ず影もできる。
「明」があれば「暗」がある。これは世の常識であり、真理でもあります。
私は、移植法以前に、臓器移植自体に否定的な一人であり、他人の身体の一部を金で買ってきて移植するというやり方が納得いかないので、今回の移植法に関してもどうしてそこまでする必要があるんだろうと・・・ (__;)
報道というのは、客受けすることしか大きく取り上げないのが一般的だから、たいていは難病に苦しむ子どもとかを取り上げて、なんとかこの子の命を助けたいとか訴える親の声を視聴者や聴取者に伝えて、世論をその方向に向けようとするものです。
しかし、臓器というものは作ることができませんから、誰かの身体から取り出す必要があるわけです。
当然の事ですが、臓器を取り出された方の身体からはそれが無くなってしまうわけですよ (^^;
死体から摘出した臓器でコトが済めばハナシは簡単なんですが、たいていは「生きている人」、もしくは「亡くなって間もない人」から摘出した臓器でなければ移植には不向きとされています。
それで、今回のような法律が求められるわけです。
移植を待つ人たちの数よりも、臓器を提供する人の数の方が圧倒的に少ないわけですから、そこになにがしかの思惑が絡むんじゃないかと思うのは当然のことで・・・
例えば、脳死と「思われる」人がいて、その人が「死を宣告される」のを「待っている」とか「願っている」人が何人もいるという事ですよ (^^;
この事がどれだけ異常なことか・・・
「脳死」と判定されれば、身体から臓器を取り出すことができるわけですから、「今」生きている誰かのためにと、救命の医療行為が途中で放り出されるような事がないと断言できるのだろうか・・・
たとえ脳死と判定されても、遺族の心情としては死んでいることを認めたくないと思うのは自然なことであり、救命措置を続けてほしいと医療機関に頼み込んだ場合、それを暗に断るようなことがないとは言いきれないだろう。
または、周囲から遺族側になんらかの心理的な圧力が加わり、臓器の提供に同意しなければ人非人だみたいな誹謗中傷がないともいえないんじゃないか・・・
そういう、臓器売買まがいの事が公然と行なわれかねない世の中に、今回の移植法の成立はつながっていくんじゃないかと心配でなりません。
現に、アメリカなんかではすでに臓器売買がビジネスとして成り立っていて、高額なカネで臓器が売買されて移植されているのは周知の事実です。
今はまだ最初の一歩が踏み出されたばかりですから、すぐにどうこういうようなことはないでしょうが、人間には「馴れ」という魔物が棲みつきやすいものです。
しだいに、しだいに、おかしな方向へと運用がねじ曲げられていかないと、誰が断言できるのでしょうか・・・
臓器移植によって助かる命と、臓器提供によって完全に断ち切られてしまう命と、そこになんらかの違いはあるのだろうか・・・
私にはどうしても「脳死」という概念が納得いかないんですがねぇ・・・ (__;)
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コメント
うーん、ピーターさんもおっしゃっておいでですが、臓器移植ありきの脳死であるようでは困ります。
きちんとした公平な定義に基づいて脳死判定と臓器移植を行うことは出来るのでしょうか?
投稿: お茶汲み坊主 | 2009年7月15日 (水) 16:03
お茶汲みさん、どうもです (^_^)/
タテマエは、臓器のやり取りに「お金は絡まない」という事になっていますが、そんな事はあり得ないと想います。
裏では提供者に謝礼金のようなものが支払われているのかもしれませんし、有力者などがカネにモノを言わせて横から臓器を入手するかもしれません。
世の中、慈善事業のような形ではシステムを維持していくのは難しいと思うので、必ずどこかでカネが動いていると思います。
投稿: 夢ピ | 2009年7月15日 (水) 17:01