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2010年12月17日 (金)

思い上がり

 今年の大晦日に放送されることになっている「紅白歌合戦」に初出場が決まった植村花菜ですが、当日歌う予定になっている「トイレの神様」に対して、各方面からクレームも出ているようだ・・・

 この「トイレの神様」については、6月にもこのブログで取り上げて、ウソ臭く、安っぽい作品だとこき下ろしたことがあります (^_^ゞポリポリ

 

 もともと、「トイレの神様」しかヒットした作品は無いわけですから、当日も当然のように「トイレの神様」を歌うことになるんでしょうが、この作品は10分近い長いもので、しかも、「カットできるところが一つもない曲なので、紅白でも一言も切らずに歌わせていただきたいと思います」と本人が宣言したことにより、紅白の製作サイドでもその方向で検討しているといいます。

 

 これに対し、真っ向からクレームを付けたのが和田アキ子で、自身の番組の中で、「どんな歌だって削るところはない!」と、植村の発言に噛みついたという・・・ (^^;

 

 確かに和田アキ子の言い分はもっともなハナシだと私は思う。

 テレビの音楽番組では、時間的な制約の中で多くの歌手の歌を披露する都合があるので、「ワンハーフ」という手法が取られることが少なくありません。
 つまり、一曲丸々歌うのでは長すぎるので、1番を歌った後に間奏を挟んでサビを歌うというような手法を用いて、限られた時間をやり繰りするわけです。

 一つの作品は、作詞家や作曲家など、多くの人の想いが凝縮されているワケで、番組的な都合で勝手に切り売りしていいというようなモノではないのは誰だってわかると思うけど、それでもオトナなら自分の都合だけを一方的に押しつけるようなヤボはするべきではない。

 

 昔、フォークソングと呼ばれる新しいスタイルの歌が世の中に登場した時、旗手の一人だった吉田拓郎が、「1曲だけでは自分の世界を表現できないので、長い時間を取って歌わせて欲しい」という条件をテレビ局側に突きつけたことがあった。
 他の歌手たちとのバランスもあり、一人の歌手にだけ多くの時間を割くわけにはいかないと突っぱねると、拓郎はテレビ出演を拒否するようになり、これが他のフォークシンガーたちにも影響を与え、70年代は、「テレビに出ないこと」がフォークシンガーたちのステイタスだったことがあった。

 

 今回の植村花菜の言い分も、この時の拓郎の言い分に似ているんじゃないか。

 たとえ、3分間という短い時間であったとしても、その中で表現できる事は少なからずあるのではないか。
 最初からそういう努力をしようともしないで、もっと長い時間歌わせろとゴネるのは、やはりアーティストとしてというよりも、人間として失格なのではないか、私はそう思います。

 

 

  20101217003

 

 例えば、こんなふうに歌詞をカットして歌ったとしても、祖母から教えてもらった「トイレの神様」のエピソードはある程度伝わると思います。
 何も、祖母と疎遠になった事や、亡くなる際の事までキッチリと歌わなくても、植村が訴えたいことは聴衆にも伝わってくるんじゃないかな。

 

 歌謡界では、どんな大御所であったとしても、自分の都合だけで歌を歌ったりはしない。
 それがオトナとしての分別であり、良識というものだと私は思う。

 たとえ、自分の思惑とは違っているとしても、一歩下がって相手を立てることをする事も、人間としては大切な事なんじゃないかな。
 子供じゃないんだから、自分のワガママだけを押し通そうとするのは、見苦しいことこの上ない (ノ_-;)ハア…

 

 もし、カットするところが一つも無く、フルバージョンで歌わなければ自分の作品を聴衆に伝えられないと、植村花菜が本当に思っているのだとしたら、丁寧に出場を辞退するのが良識あるオトナであり、他の出演者に対する配慮なのではないか。

 

 私は、今回の植村花菜の発言に対しては、断固として異を唱えると共に、和田アキ子の発言に対しては、喝采を贈りたいと思っています。

 

 思い上がりも甚だしいぞ! 植村花菜!!!

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