会津若松市議会
いやいや、目からウロコというか、灯台もと暗しというか・・・ (^^;
私の故郷でもある会津若松市において、全国から千人以上もの人が議会視察に訪れているというニュースを目にし、あらためて会津という土地を見直した次第です (〃⌒∇⌒)ゞ ♪
http://diamond.jp/articles/-/10902
この記事、私もまったく知らなかったんで、まさに寝耳に水という出来事なんですが、なかなか読み応えがある内容なので、ぜひご一読願いたいと思います。
昨今、自治体の首長と議会が対立するというニュースが、例えば名古屋市だったり、阿久根市だったりと続きました。
それ以前にも、田中長野県知事と県議会とか、橋本大阪府知事と府議会とか、おそらくそういう首長と議会との対立は、枚挙にいとまがないのではないか・・・
そんな中にあって、市民の目線での政治が行なわれているという、会津若松市議会・・・
昔、「ならぬことはならぬものです」と説いた会津松平家の初代藩主、保科正之の教えが色濃く残る、会津という土地ならではのホットなエピソードにも思えました。
会津若松市議会が行なっている画期的な取り組みの詳細は、上のリンクをクリックしてダイヤモンドオンラインの記事からお読み頂くとして、今日は、市長と議会との対立を経て、今や会津若松市のシンボルともなった会津若松城の再建話をご紹介してみようかなと・・・ (^_^ゞポリポリ
会津若松城・・・ 地元では、もっぱら「鶴ヶ城」という名前で呼ばれており、私も「鶴ヶ城」という名前でしか呼んだことはありませんが、戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ、薩長を始めとする新政府軍の総攻撃を一ヶ月も受け、ボロボロになった天守閣は、そのまま残しておくのは危険だからという理由で、明治の初めに解体されました。
写真は、会津に住んでいた頃に撮ったもので、85年1月28日という日付が写り込んでいます (^^;
という事は、四半世紀前のモノということになります(苦笑)
通りで、あちこち変色しちゃっていますが、そこはご愛敬という事で・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪
その天守閣を再建しようというハナシが持ち上がったのは、戦後間もなくの昭和24年のことだったといいます。
当時の会津若松市の財政は火の車であり、貧乏の極致にあった市民たちからの賛同は得にくく、再建計画は遅々として進まなかったといいます。
しかし、当時の会津若松市長であった横山武と、議会の代表者である高橋直幸の二人が中心となって進められた再建計画は、昭和39年7月、僅か1票差で議会を通り、いよいよ本格的な再建工事が開始され、翌40年に完成しました。
何より画期的だったのは、天守閣の建設資金は全て募金によるカンパでまかなわれたという事で、市民の血税は一円たりとも使われていないという事です。
今でこそ、市のシンボルとして市民からも愛されている鶴ヶ城ですが、再建前後は横山市長の強引な政策を非難する人も多く、市議会はもちろん、市民からもワンマン市長として大きなバッシングを受けたと聞いています。
しかし、信念を通して、鶴ヶ城の再建に邁進した横山市長の英断があったからこそ、今日の会津の観光事業があるのだと思わずにはいられません。
という事で、昔は市長と議会の対立もあった会津若松市議会ですが、今現在は、市民と一体となって運営されているそうで、旧会津若松市民としてはちょっぴり鼻が高いなと(苦笑)
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