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2011年4月29日 (金)

けがれる

 「けがれる」ということばを見聞きした場合、一般的には「汚れる」という文字を思い浮かべる方がほとんどだと思います。

 「汚れる」ですと、「きたなくなる」とか、「よごれる」という意味になりまして、場合によっては「(名誉などが)傷がつく」という意味で用いられる事もありますが、今日記事の中で取り上げたい「けがれる」は、「汚れる」の方ではなくて、「気枯れる」の方を語ってみたいなと・・・ (^_^ゞポリポリ

 

 「気枯れる」ナンていっても、今ではそういうことばを用いる機会は皆無といっていいと思うので、いわゆる「死語」ではありますが・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 2年ほど前に、「晴れ」という記事の中で、「ハレ」「ケ」について語ったことがありまして、その時には主に「ハレ」についての内容だったので、今回は「ケ」の方を取り上げてみようかなと・・・

 

 「ハレ」ということばは、ほとんど使われなくはなりましたが、それでも「晴れ着」とか「晴れ舞台」などということばとして、どこかで使われているのを耳にした事があるかもしれません。

 いわゆる、「特別」とか「おめでたい」というような意味があるのが「ハレ」ということばで、その対極にあるのが「ケ」ということばであり、「普通」とか「日常」という意味で用いられました。

 つまり、「気枯れる」というのは、「ケ」が「枯れて」しまうということを言い表したことばで、日常生活がうまくいかず、順調ではないことを、かつては「気枯れる」ということばで表現していたわけです。

 今風に申し上げるならば、大震災や原発事故で被災なさった方々が、まさに「気枯れた」状態にあるワケですが、こうして文字で書くならともかく、音として「けがれた」ナンて耳にすると、泥や放射線で「汚れた」などと誤解を与えかねないので、配慮が必要です。

 まぁ、今ではまず使われることのないことばですから、そういう心配もないとは思いますが、その昔、「気枯れる」ということばがあったという事は知っておいてもムダではないかと思います。

 

 人は、往々にして「ハレ」をことさら大事にし、「ハレ」ばかりを求める生活をしがちではありますが、本来は「ケ」の方が生活のメインであり、同じような事を繰り返す「平凡な毎日」が延々と続くのが人生でもあります。

 

 しかし、かつてとは違って、日常生活そのものが贅沢になってきており、食事でも娯楽でも、以前なら特別な日にしか口にしないような美味しい食事を毎日当たり前のように食べ、華やかな服を着、楽しみを求めて外出してはお金を使っています (^^;
 マイカーも普通に所有しており、テレビやPCやエアコンを始めとする家電製品が家の中にたくさんあっても、いっこうに便利な生活をしていることに気付かず、それが特別な事だとも思っていない人も多いと思います。

 いうならば、毎日が「ハレ」の生活をしているのが現代人なのかもしれません(苦笑)

 そういう人にとっては、「ケ」と呼ばれる日常の生活は、平凡極まりなく、退屈そのものに感じるのかもしれません。

 

 しかし、人の欲望には限りがありません。
 以前なら、テレビが無い家庭も珍しくなく、近所のテレビのある家に出かけて行って見せてもらった事もありました。
 私も、そういうテレビの無い家の子供だったので、親戚の家にお邪魔してはアニメなどを見せてもらったことを思い出します (^^ゞ

 そういう時代なら、テレビを見に他所様のお宅に出かけることさえも「ハレ」だったわけですが、今は一家に一台のテレビなんて別に特別なことでもなく、一人に一台のテレビがある家庭だって珍しくはないと思います。

 ですから、現代ではテレビを見ることは「ケ」であり、誰も特別なことだとは思っていないはずで、そういう時代ですと、「ハレ」はよほど特別な「何か」がないと有り難がられない事になってしまいます (^^;

 

 そういうふうに考えますと、今は刺激的な毎日が「ケ」になってしまっていますから、より刺激的なもの、より特別なものを人々が求めるようになってしまっており、そういう世の中は、確かに便利ではありますが、幸せな事なのかとあらためて考えてみると、はなはだ疑問ではあります・・・

 よく、現代を評して、物質的には豊かになったけれども、精神的には貧しくなったというような声を聞くことがあります。
 私も、その通りだと思っている一人です。

 

 モノが世の中に溢れれば溢れるほど、人と人とのつながりはどんどん希薄になっていってしまうように思えてならないのです・・・ (__;)

 最近では、人とコミュニケーションをとるのが苦手で、他人とは関わりたくないと考えているお若い人も少なくないようで、そういう人の中には、ネットに逃げ込み、ネットさえあれば一生誰とも関わらずに生きていけるだなんて本気で考えている人も少なくないようです。

 しかし、いくらネットが普及しようとも、自分一人で生きていけるワケがなく、どんなに拒絶しようとも、他人との交わりを完全に断つ事は不可能なことです。

 

 幸いにして、日本語には「人」という文字があり、「人間」ということばがあります。

 「人」は単に動物としてというか、数ある生物の中でどんな種類の生き物なのかを言い表したことばに過ぎませんが、「人間」というのはそういうモノとは違い、どういう存在なのかを見事に言い表したことばです。

 「人」と「人」との「間」に生きているのが「人間」というワケで、「人」は一人では生きてはいけないんだということが、「人間」ということばからもうかがえるワケですよ。

 もし、「人」が無人島のような場所でたった一人で生きていかなければならないとしたら、「ことば」や「文字」ナンていうコミュニケーションのためのツールは必要ないわけで、なぜ「人間」はことばを話し、文字を書くのかといえば、「人」と「人」との「間」で生きていくために必要だからです。

 

 そして、「人」と「人」との「間」で生きていくのが人生ですから、「ハレ」という刺激も時には必要ではありますが、「ケ」という何げない日常の方こそを、大切にするべきだと私は思っています。

 なぜなら、「ハレ」で過ごす時間よりも、「ケ」で過ごす時間の方が、人生の中では圧倒的に長いはずだからです (^^)v

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