2017年1月29日 (日)

ウォッチバンドカレンダー

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 写真は、腕時計のバンドに取り付けて使うタイプのカレンダーで、私がサラリーマンをしていた昭和の終わり頃にはよく見かけたシロモノで、私自身も保険の外交員が顔を出すきっかけにと毎月持参して同僚たちに配るこのカレンダーを貰って愛用したものですが、平成に入った頃から見かける事は少なくなりまして、いつの間にかそんなモノがあったことさえアタマの中からキレイサッパリ消えてしまっていたのですが、半年くらい前にTBSラジオの番組の中で話題に上がり、そうそうと懐かしく思い出しました (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 で、さっそく購入しようとネットで探してみたのですが、すでに時代遅れのシロモノですから定番商品というわけにはいかず、年に何回か、数量限定で期間を限って販売しているようで、今回の販売開始を待ってめでたく購入の運びとなりました (^^)v

 一年分の12枚セットが400円ということで、決して安いとは言えない商品ではありますが、話のタネにと二セット注文したものが先日手元に届いたので、早速愛用の腕時計のバンドに取り付けてみました。

 

 確かに、今さらこんなアナログなシロモノを使わずとも、携帯などでカレンダーに不自由することは無いだろうとはいうものの、チョッとした時にカレンダーを確認したいと思う事は少なくないわけで、そんな時に重宝するのがこのウォッチバンドカレンダーです (*^.-^*)♪

 なんとなく、かつてのサラリーマン時代に戻ったようで、左腕の時計を見るのが楽しくなりそうです (^◇^) 。。。ケラケラ

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2016年3月29日 (火)

サンチェーン

 コンビニエンスストアといえば、今やデパートやスーパーに変わって、流通業界の旗手として目覚ましい躍進を遂げていますが、少なくても、私が高校を卒業した1977年当時はコンビニの黎明期であり、めったな事ではその姿を見かけることはありませんでした。

 今、コンビニ業界のトップは「セブン-イレブン」ですが、セブン-イレブンという名前は営業時間が「朝の7時から夜の11時まで」だったからで、今は24時間営業が当たり前のコンビニ業界ですが、当初は深夜は閉店しているのが当たり前でした。

 

 そんな中、高校を卒業して住み始めた江戸川区内には、セブン-イレブンが在ったのかどうか記憶が曖昧でハッキリしないのですが、よく利用していたのが新小岩駅までの道筋に在った、江戸川区中央の「サンチェーン」というコンビニでした (^^)v

 先に述べたように、深夜は営業していない「セブン-イレブン」に対して、24時間営業を先行して行なっていた唯一のコンビニが「サンチェーン」でした。

 やがて、24時間営業のコンビニはどんどん増えていきましたが、70年代後半のこの当時は、コンビニといえども24時間営業を行っているお店はまだごく一部のお店しかありませんでした。

 

 その後、サンチェーンはローソンに吸収合併されて姿を消し、看板もローソンに付け替えられて今に至りますが、私自身は「サンチェーン」でよく買い物をしてお世話になった一人です (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 おそらく、今現在、「サンチェーン」という名前のコンビニがかつて存在していた事をご存じの方はほとんどいないんじゃないかと思われますが、少なくても私は利用者の一人としてその名前を懐かしく思い出します ・・・

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2016年3月11日 (金)

あれから5年

 今日は、東日本大震災の発生から5年目の節目という事で、おそらくテレビやラジオでは特番が組まれるのだろう ・・・

 私は千葉県の成田市に住んでおり、地震による直接的な被害はなかったコトもあり、「もう5年」という意識が強いんですが、おそらく東北にお住まいの方、特に直接的な被災地である福島、宮城、岩手にお住まいの方にとっては、「まだ5年」という思いの方も少なくないのではないかと思います ・・・

 

 あの日 ・・・

 2011年3月11日は、今日と同じ金曜日で、私はたまたま自宅で家内とくつろいでいたのですが、いきなりアパートが揺れ出したのもつかの間、直ぐに大きな横揺れとなり、家内と共に屋外に飛び出したのですが、いつまでもグ~ラグ~ラと揺れ続ける地震に、家内と二人、身をすくめて成り行きを見守り続けるだけでした ・・・  (^_^ゞポリポリ

 その時の様子は、翌日に「大地震」という記事で語った事があるのですが、アレだけの大地震を体験したのは生涯二度目ですが、事、「恐怖感」という点では5年前の東日本大震災の時よりも、33年前の日本海中部地震の時の方がはるかに恐ろしい思いをしました (^_^;

 なにしろ、震源地の直近で起きた大地震でしたから、その時に目にした光景は今でも目の奥に焼き付いていて思い出すことが出来ます。

 2階の窓の外では、電柱が大きく揺れ、火花を散らしながら電線が切れ、とにかく足元にしゃがむことが精一杯の避難行動でした ・・・  (__;)

 その後、津波が襲ってきて海岸線付近に遠足に来ていた小学生達が波にさらわれたとか、デパートの天井が落ちたとか、鉄道が不通になったとかのニュースが矢継ぎ早に報じられたのですが、あの時は本当に生きた心地はしませんでした ・・・  (^^;

 

 ところで、未曾有の大震災というと、「関東大震災」を始め、過去にいくつも起こっているワケですが、私の記憶の中では「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」がどうしても強烈に思い出されるのですが、奇しくも、この二つの大震災が起きた時の総理大臣は、自民党の政治家ではありませんで、前者の時の総理大臣は社会党の村山富市であり、後者の時の総理大臣は民主党の菅直人でした。

 どうして自民党以外の政治家が総理大臣を務めている時に限って大地震が起きるのか、単なる偶然だとは思うんですが、日本国内では自民党が政権の座に座っている時の方がはるかに長いというか、自民党以外の政党が政権を握っていた時の方が例外的なわけですから、その時に限って未曾有の大天災が起きるというのも不思議といえば不思議です (^◇^;)

 どちらの大震災の時も、その後の対応の悪さが原因となって両首相は辞任に追い込まれ、社会党も民主党も政権も失ってしまうワケですから、穿った見方をすれば、「天」が自民党以外の政権を天災を起こして政権の座から追い落としたとも思えるわけですよ ・・・

 まぁ、上は冗談ではありますが、おそらく自民党の連中は口にこそ出しませんが、心の中ではそのくらいの事を思っているんじゃないのかな ・・・  (^◇^;)

 

 それはともかくとして、今日は、嫌でもあの大震災を思い出してしまう1日になるのだと思います ・・・

 あらためて、被災なされた方々には、心からお見舞いとお悔やみを申し上げます ・・・

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2016年2月21日 (日)

思い出の食

 一月ほど前に、「鴨川食堂」というドラマを紹介した事がありました。

 

 「思い出の食、捜します」という、一行広告を目にした人が、ワラにもすがる思いでやって来る「鴨川食堂」 ・・・

 毎回、ハートフルなストーリーで、楽しませて頂いています (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 特に、番組の最後で「思い出の食」を前にした依頼人が、様々な思いを抱きながら口に運ぶ様子が描かれるんですが、皆さん本当に演技がお上手で、見ている私らもつい、もらい泣きさせられてしまいます (;^_^A アセアセ・・・

 

 誰しも、心の奥底に「思い出の食」をお持ちだと思います。

 それは、例えば「お袋の味」とか「郷土料理」みたいに、その人の味の好みのベースになっている場合もあるでしょうし、もう一度食べてみたい「懐かしい味」というケースもあると思います。

 

 そういう私にも、もう一度食べてみたい「思い出の食」がありまして、それは会津若松市内で食べた「珍さんラーメン」という不思議なラーメンです (^_^ゞポリポリ

 初めて食べたのが、私が高校1年か2年の時ですから、40年以上も昔の事になります ・・・

 会津若松市内に下宿していた、いとこに連れられてお店に入り、一緒に食べたんですが、ナンと言うんですかねぇ、狭いカウンター式の小さなお店の中は、スープを煮込んでいる大きな鍋から立ち上っているのであろう、得も言われぬ「くさい」臭いが充満していて、入るだけでもかなり抵抗があるようなお店で、出てきたラーメンがまた独特の臭いと味とで、私はとても食べる事ができませんでした ・・・  (;^_^A アセアセ・・・

 いとこはそのお店がお気に入りのようで、よく足を運んでいるみたいでしたが、私は口に合わないと、二度とそのお店に入ることはありませんでした(苦笑)

 

 しかし、味の好みは時間の経過と共に変って行くようで、10年近く経ってから、会津若松市内で仕事をしていた時に、ふと高校時代に勧められたあの不思議な味が懐かしくなって、入口の戸を開けて入ったのが「珍さんラーメン」との再会でした (*^.-^*)♪

 その時にもやはり、あの不思議な独特の臭いがお店の中に立ちこめていまして、恐る恐る食べたラーメンもやはりあの時と同じような「臭い」「味」だったんですが、その時には、なぜかそのラーメンが「美味しい」と思えてしまいまして ・・・  (^◇^) 。。。ケラケラ

 私も大のラーメン好きですから、けっこうアチコチでラーメンを食べてきたわけですが、それらのラーメンのいずれとも違う、独特の味の「珍さんラーメン」に、私はすっかりはまってしまいまして、以来、事ある度にお店に入ってラーメンを食べる、いわゆる常連の一人になっていました (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 ただ、私にはとても美味しいと思う「珍さんラーメン」なんですが、同僚を連れて行っても、誰一人美味しいと言ってくれた人は居りませんで、ちょうど高校生の時に、いとこに連れられて入って食べた私のように、とても食べられたモンじゃないと酷評し、そんな不味いラーメンを美味しいと言って食べる私を怪訝そうに見るのが常でした ・・・  (^◇^;)

 まぁ、大衆ウケする味ではなかったようですが、それでも市内の目抜き通りに近い場所で長いこと営業していたわけですから、決してお客が居なかったわけではなく、私のように「珍さんラーメン」の虜になってしまったコアな常連さんが少なからず居たものと思われます(苦笑)

 

 その後、千葉に出てきてしまった私は、当然の事ですが「珍さんラーメン」を食べる事はできなくなってしまったわけですが、帰郷した折などに無性に食べてみたくなってお店を訊ねたことがあったんですが、その時にはすでに、馴染みの場所からお店は無くなっていまして ・・・

 で、どうしてももう一度あの「珍さんラーメン」が食べたくて、会津若松市内に住む喜多方高校時代の旧友に、それとなくどこに移転したのか訊いてみた事があったんですが、旧友達の評判も一様に良くなく、止めといた方がいいよというアドバイスを無視して、教えてもらった市内のハズレに在る「その」お店を訪ねたことが一度あったんですが、出されたラーメンはなんとなく、あの時の味とは同じようでもあり、ぜんぜん違うようでもありで、納得できずにお店を後にしたんですが、時が経って私の記憶もあやふやとなったとはいうものの、あんな味のラーメンに私が夢中になったとはとても思えず、やっぱりあの時の「珍さんラーメン」とは別物という結論になって、今に至るまで二度と足を運ぶことは無いわけなんですが、さて、そうなると私のあの「思い出の食」は、本当に「幻の味」となってしまったという事になるワケで、残念で残念で ・・・  (__;)

 もしかしたら、ラーメンそのものは同じものだったのかもしれませんが、お店の雰囲気がかつてのこぢんまりとしたカウンター式ではなかった事が、味わいになんらかの影響を与えたのかもしれません。
 同じものを食べても、食べる状況が違うと別の食べ物のように感じてしまう事は、よくあることだからです ・・・  (^_^ゞポリポリ

 

 皆様方におかれましても、そういう、もう一度食べてみたいと思う「思い出の食」って、何かありますか?

 

 それはともかくとして、このドラマも連続8回の予定というコトで、今日の第7話を含め、残り2回という事になってしまいまして、とても残念に思っている私がいます・・・ (__;)

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2016年2月11日 (木)

下中津川小学校

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 写真は、私が通って卒業した、奥会津の山村に在る小学校で、「昭和村立下中津川小学校」という名前の我が母校です (^^;

 といっても、とうの昔に廃校となり、校舎も左端に写っている体育館を残して、全て取り壊されてしまいましたから、もう存在しませんが ・・・  (;^_^A アセアセ・・・

 

 私がこの小学校に通っていた半世紀ほど前、村内には 2校の分校を含め、六つの小学校がありましたが、児童の減少とともに存続が出来なくなり、1980年に今の新しい校舎を村の中心部に造り、全て廃校となってしまいました ・・・  (__;)

 そして児童は、村のスクールバスで送迎される形で通学しています。

 

20160130007  当時の校舎は、集会所のような形で利用されているのか、写真のように今も残っているものも中にはありますが、少なくても私の通っていたこの小学校は跡形もなく消滅してしまいましたから、卒業生の一人としては、かなり淋しい思いをしているのも事実です ・・・  (__;)

 

 私は、1965年(昭和40年)の4月に、この小学校に入学しましたが、写真では人文字の下に「1975」という石灰で書いた文字が見えますから、10才年下の弟が入学した年に、ヘリコプターか何かを利用して上空から撮った記念写真だという事がわかります。

 と申しますのも、周囲の山に登ったくらいでは、このアングルの写真は撮れないはずだからです。

 

 それはともかくとして、この小学校の校名は、先に述べたように、「下中津川小学校」と言いまして、略して「下小」です。

 その「下」「小」だけが、辛うじて在校生たちの人文字で描かれていますが、「中津川」は白線と黒いモノは灰か何かを敷き詰めたのではないかと思うのですが、その正体は不明です (^_^;

 人文字の回りに、白線を引いたトラックが辛うじて見えますが、猫の額ほどの狭い校庭ですから、直線で100mが引けませんで、対角線に引いて、ギリギリ 80mくらいの直線が引けたかどうかだったと記憶しています (;^_^A アセアセ・・・

 で、50m走も、校庭の左奥から右手前に斜めに引いた直線に沿って走り、計測したのを覚えています。

 狭いながらも、運動会もこの校庭で行なわれたわけで、校庭の周囲に陣取った大勢の父兄達で、当日は本当に賑やかだったのを今も懐かしく思い出します・・・

 

 奥の校舎の、中央玄関脇に立てられている国旗掲揚用のポールには、なぜか鯉のぼりが泳いでいますから、5月の連休前後に撮った写真ではないかと思うのですが、それでもまだ校庭のアチコチに雪のカタマリが残っているのが見て取れますし、学校の周囲にも雪らしき白いモノが民家の屋根の上や木々の枝などに見えますから、もしかしたら入学式が行なわれた後の、4月中旬くらいに撮ったものなのかもしれません ・・・  (^◇^;)

 左側にある大きな建物が体育館(当時の私たちは「講堂」と呼んでいました)で、村の集会所のような役割も果たしていましたから、映画の上映や歌手などのコンサートなどもこの体育館で行なうのが常でした (^^ゞ

 右上にはプールが写っていますが、私がこの小学校に通っていた頃にはまだプールはありませんで、中学生になった時にこの 25mプールが出来、小中兼用で利用されましたから、私も中学生の体育の時間にこのプールで泳いだ記憶があります (^^)v

 

 校舎は木造二階建てで、玄関は三つ、中央の玄関が職員と来客用、右の玄関が 1~3年生が使う低学年用、左の玄関が 4~6年生が使う高学年用です。

 一階は、右側から「1年教室」・「2年教室」・「校長室」・「職員室」・「保健室」・「理科室兼家庭科室」・「音楽室」

 同じく二階は、右側から「3年教室」・「4年教室」・「5年教室」・「6年教室」・「図書室」ですが、6年教室と図書室との間に何かあったような気もしますが、半世紀も昔の事ですから、その辺りは失念して不明です (^_^ゞポリポリ

 いずれの学年も、一クラスだけの編成です (^^;

 

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 上が 4年前に撮った、現在の小学校の跡地なんですが、校庭の左側に建てられていた体育館は辛うじて残ってはいますが、9月なのに窓は雪囲いの板で覆われ、今でも何かに使われているのかは不明です (^_^;

 校庭の中央奥に建てられていた校舎は完全に取り壊され、更地となった跡地は保育園の園庭となり、園児用の遊具が作られていました (^◇^;)

 校庭の右側には、村立の保育園が新しくできており、この写真を撮った時には園児の姿は見えませんでしたが、かつて母校の小学校が建っていた、変わり果てた校庭を眺めながら、懐かしくもあり、淋しくもあり、何やら複雑な気持で校舎跡を後にしました ・・・  (__;)

 

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 最後に、校庭の隅に設けられていた「下中津川小学校」の校歌を刻んだ歌碑を紹介して記事を締めたいと思います。

 この校歌は、私が小学 2年生だった昭和41年にできたものと記憶しています。

 けっこう長い歴史のある小学校のはずなのに、それまで校歌が無かったというのも不思議な事なんですが、出来上がったばかりの校歌を、音楽教師がオルガンを弾きながら教えてくれた事を懐かしく思い出します。

 歌詞はともかくとして、メロディは校歌らしくなく、当時としてはけっこうポップな感じで、個人的には好きな校歌です (*^.-^*)♪

 もちろん、こうして歌詞を見ればではありますが、今でも 3番まで全て歌う事が出来ます o(*^▽^*)o~♪

 

      下中津川小学校 校歌

                  高橋新二 作詞  今野五郎 作曲

 (一)
 連れだって 肩ならべ  こころおどらす 里道野道
 吹け旋風(そよかぜ) みどり風  セピアの屋根が見えてくる
 下中津川 みんなと進む

 (二)
 志津が倉 雪の日も  代官清水は まんさくさゆり
 呼べ山びこ ひびく胸  ポプラの庭に 学んでく
 下中津川 みんなが育つ

 (三)
 山たかく 水きよく  みのりひろがる ふるさと昭和
 飛べあこがれ 誘う鳥  博士も野尻も 夢まねく
 下中津川 みんなで励む

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2016年1月30日 (土)

大学ノート

 紙のサイズには、A判B判があるのは周知の事実です。

 簡単に言えば、A判は国際規格、B判は日本独自の規格です。

 日本では、これまでは「大学ノート」に代表されるB判が主流で、A判は比較的マイナーな存在だったのですが、最近は社会のグローバル化が進み、日本国内で使われる紙のサイズも国際規格のA判が主流になりつつあります。

 

 翻って、タイトルの「大学ノート」ですが、「B5サイズ」の代名詞みたいな存在で、私も小学生の頃からノートといえば「大学ノート」をずっと使い続けてきまして、とてもなじみ深く、愛着もあります。

 大学ノートを開いた大きさがB4サイズで、原稿用紙や習字で使う半紙もB4サイズです (^^)v
 厳密にいうと、習字の半紙は一般の半紙よりもホンの少し小さく裁断されていますが、「半紙」ということばが使われているので、便宜上B4サイズという事でいいと思います (^^;

 

 ところで、一週間前に「B6サイズ」という記事を書いた時に、ネッ友さんからB6サイズは使ったことがないというコメントを頂きまして、「へぇ~ ・・・ 」と思ったのが今日の記事を書くきっかけになりました (^_^ゞポリポリ

 と申しますのも、私の個人的な体験では、授業でノートをとる時に使ったB5サイズの大学ノートはもちろん、メモや落書き用などに、B6サイズのノートを重宝して使ったことがあるからで、そういえば今もB6サイズのノートは売っているんだろうかと思い、ホームセンターに足を運び、チョッと事務用品売り場を覗いてみました (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 そしたら、あった、あった、ありましたよ (^^)v

 昔使ったのとほとんど同じ、B6のノートが ・・・  (*^.-^*)♪

 で、話のタネにと購入してきたのが下の写真のノートです (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

   20160128001

 

 今現在は、ビジネス界では「A4」サイズが主流ですから、私も好むと好まざるとに関わらず、仕事上ではコピー用紙を始め、レポート用紙なんかもA4サイズの紙を使っていますが、仕事用でも個人的な用途には今でもB5サイズのコピー用紙や大学ノートを愛用しています (^^)v

 個人的な用途というのは、例えば日報であったり、備忘録であったりという類のものですが、第三者の目に触れる機会の少ないものは、使い慣れているB5サイズの用紙や大学ノートの方が、手に馴染んで使いやすくてね (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 以前はそれほど使われることの無かったA4サイズですが、今は小学生が使うランドセルでさえ、A4対応という事で昔から比べれば一回り大きくなっているのが一般的なので、最近の子ども達は私らと違い、B5に対する思い入れも少なく、A4の方が馴染み深いと思っているんでしょうな (;^_^A アセアセ・・・

 という事で、私はやはりB5サイズの用紙やノートの方が、A4サイズよりも使いやすいと思っている一人です (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

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2015年12月11日 (金)

百円

 今日は「百円玉の日」だそうです。

 1957(昭和32)年のこの日、初めて百円玉が世に登場しました。

 

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 1957年(昭和32年)~  1959年(昭和34年)~  1967年(昭和42年)~

 

 この時の百円玉は、表に鳳凰が描かれ、裏には旭日が描かれていました。
 材質も銀貨というコトで、今使われている白銅貨と比べればずいぶん高価そうに見えますし、デザイン的にも秀逸で、かなりいい出来映えだと思います (^^;

 もっとも、この鳳凰が描かれた百円銀貨が流通していたのは、私の生まれる前の事でもあり、私の記憶の中には全くありませんで、僅か2年後には新しい稲穂の百円銀貨が発行されまして、アッという間に姿を消してしまうわけですが、この稲穂の百円銀貨は辛うじて私の記憶にも残っています (^^ゞ

 さらにその8年後、材質を銅に落とした現行の百円白銅貨が発行されて今に至るわけですが、この時でさえ私は小学3年生ですから、百円玉を気軽に手にすることはありませんで、もっぱら十円玉が小遣いとして使うメインの硬貨でした (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

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 ただ、この当時は「百円」といえば硬貨ではなく、紙幣の方が一般的なお金でした (^^;

 上が、当時使われていた「百円札」ですが、立派なヒゲをたくわえた板垣退助の肖像画は、聖徳太子と並んでお札の顔として鮮明に記憶に残っています (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 二人の顔の記憶がよく残っている理由としては、手にして使う頻度が高かったからというよりは、他のお札よりも目にした時のインパクトが強かったからという理由の方が大きいです(苦笑)

 

 一万円札は、言わずもがなの最高額紙幣として、子供が手に出来るお札ではありませんでしたが、それ故に「凄いお札」というイメージが強く、お札の大きさも今の一万円札よりずっと大きかったので、子供心にも強く印象に残りました (^◇^) 。。。ケラケラ

 一方の百円札は、子供が手にすることの出来るギリギリのお札だったので、他のお札と比べれば一番馴染み深く、親しみも持てたのが今でも記憶に残っている理由です。

 

 そんな百円札も、現行の百円白銅貨が発行される1年前の1966年に廃止が閣議決定され、74年を最後に日銀からの支払いも停止されて、市場からフェードアウトしていき、自然と百円玉へと切り替わっていきました・・・

 私なんかはこの百円札にけっこう思い入れのある世代なので、目にしなくなった当時はかなり淋しい思いもしましたが、この当時の百円は、今よりはずっと価値が高かったので、百円札もそれなりに有り難い思いをして手にしていたわけですが、今では子供でさえ百円玉を手にしてもそれほど有り難いなんて思わないでしょうから、百円がお札から硬貨へと切り替わり、サイフの中から百円札が消えたのは、間違ってはいなかったように思います。

 確かに百円札から比べれば百円玉は若干重いですが、サイフの中に百円札が10枚も20枚も入っているのを想像したら、硬貨の方が扱いは楽なように思えるので・・・(苦笑)

 お札の色も、セピア色というか、そういう独特の色で印刷されていたのも、時代がかっていて懐かしく感じる所以なのでしょうか・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 いずれにしても、私の半世紀ほどの人生の中でさえ、「百円」の価値はずいぶん変ってしまいました・・・

 私が小学生の頃ですから、おおよそ50年くらい前には、百円でラーメンが1杯食べられました。
 今は、安くても600円位はしますから、ラーメンの価格は6倍くらいにはなっている勘定です。
 コーラだと1缶30円でしたが、今は自販機で買うと130円ですから、4倍くらいですか・・・ (^^;

 そういえば、子どもの頃に十円玉を握りしめて駄菓子屋に行き、お菓子やビー玉やメンコなどの遊び道具をあれこれと買ったのが懐かしいんですが、今は10円で何が買えるんでしょうか・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 それにしても、現行の百円玉が世に登場して48年というコトで、もう半世紀近くも使われているわけですね (;^_^A アセアセ・・・

 もっとも、十円玉なんか私が生まれる前の1951年に発行されましたから、すでに64年も使われ続けている事になるワケですが・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

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2015年11月14日 (土)

魔法瓶

 先日、テレビを見ていたら、美輪明宏が「魔法瓶」ということばを口にしたのを耳にし、懐かしいなぁと・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 「魔法瓶」・・・

 最近では「ポット」という名称の方が一般的なんだろうか、「魔法瓶」ということばはしばらく聞いていないような気がしますし、お若い方にはピンと来ない古臭いことばなのかもしれません (;^_^A アセアセ・・・

 

 私が子どもの頃、お袋がヤカンで沸かしたお湯を魔法瓶に入れ、それでお茶を淹れるのを見て、ナンで魔法瓶のお湯はいつまでも冷めないんだろうと不思議に思ったものです (^^ゞ

 不思議な容れ物だから「魔法瓶」・・・
 実にうまいネーミングだと子供心に思ったものです (^◇^) 。。。ケラケラ

 

 そんな魔法瓶も、その後電気コードが付くのが一般的になり、その頃から「魔法瓶」ということばは少しずつ聞かれなくなって、代わって「ポット」ということばが使われるようになりました。

 ポットのコードをコンセントに挿し込んでおけば、ポットに入れた水がお湯になり、沸いた後は自動的に保温してくれるという事で、使い勝手はずっと良くなりました (^^)v

 しかし、名前が「ポット」に変ったのと同時に、それまで魔法瓶に対して抱いていた「不思議」さは消えて無くなってしまいました・・・ (__;)

 何もしないで放って置いても、いつまでも中のお湯が冷めない「魔法瓶」に対し、「ポット」には電源コードが付いていますから、見た目にも機械的にお湯の温度を管理しているのがわかるため、「魔法瓶」ほどのインパクトは無いからです。

 

 最近では、お湯は別の器具で沸かし、保温だけが出来るタイプのポットを「保温ポット」などと呼び、自らお湯を沸かし、その後保温に切り替わるタイプを「電気ポット」などと呼んでいるようですが、そういう名称が当たり前に使われるようになった今だからこそ、「魔法瓶」ということばはもっと大事にされてしかるべきだと、昭和を生きて来た私なんかは思うんですが、どんなもんでしょう・・・ (^◇^;)

 やっぱり、「魔法瓶」ということばには古臭いだけのレトロなイメージしかないんでしょうかねぇ・・・ (ノ_-;)ハア…

 

 そういえば、4年前の今頃にも「魔法瓶」という記事を書いたことがあるんですが、この時期にそういうことばが気になるのも、だんだんと寒くなってきたので、時期的にホットな飲み物が恋しくなるからなのでしょうか・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

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2015年10月25日 (日)

給料日

 今日は25日という事で、一般的な会社では給料日という会社も多いのではないでしょうか (o^∇^o)ノ

 もっとも、今月の25日は日曜日になっていますから、金曜日のうちに支払いが済んでいる会社も多いと思いますが・・・

 私自身のサラリーマン時代を振り返っても、給料日は25日というのがほとんどで、それ以外の支給日があったのかどうか、今ではもう思い出せません (^^ゞ

 

 今は、給料日といっても銀行振り込みでというのが一般的ですから、当日に会社から渡されるのは給与明細のみという事が多いと思いますが、かつては現金で直接支給されるのが普通だったので、今と違って給料日に対する思い入れは相当大きなものがありました o(*^▽^*)o

 そういう私も、最初の2社は現金支給だったので、お昼休みなどに事務員が給料袋を手にそれぞれの部署を回ってくるのが楽しみでなりませんでした (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 そういう思いを経験している一人なので、給料が銀行振り込みになった時には多少なりともショックと戸惑いがありました (;^_^A アセアセ・・・

 封筒の中に入っているのはペラペラの明細が1枚だけで、「重み」はほとんど感じられませんから、銀行に入金する手間が無くなったとはいえ、労働の対価である給料は、やはり現金で一度は手にしたいという思いはその後もしばらくは続きました (^^ゞ

 

 しかし、銀行振り込みという新しい支払い法に慣れてしまうと、あれほど思い入れの強かった現金支給に対する憧れもいつの間にか消えて無くなり、今に至ります・・・ (^_^ゞポリポリ

 むしろ、受け取った給料袋を紛失したり、盗難にあったりするリスクを考えれば、銀行振り込みは有り難い計らいなのかもしれません (^^ゞ

 

 今の私は、自営という事で「給料日」というモノとは縁が無くなりましたが、クライアントから売上げ金を振り込んで頂く「入金日」がそれに替わる日となって20年近くなりました (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 この「入金日」ですが、クライアントからすれば「支払日」というコトになり、会社によってバラバラですが、おおむね月末という会社が多いようです。
 中には5日とか10日、あるいは25日というところもあります。

 いずれにしても、給料のように1ヶ所からだけの入金ではなく、様々なタイミングでアチコチから入金があるので、管理はたいへんです (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 そして、私自身も月末には各方面への支払いが有るので、浮かれてばかりもいられません (^◇^) 。。。ケラケラ

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2015年10月16日 (金)

鉄腕アトム

20151015001 ネッ友さんのブログで、「鉄腕アトム」のコミックを古本屋で目にし、全巻まとめて衝動買いしたという記事を拝読し、今日はこんな記事で・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 昭和33年生まれの私にとって、「鉄腕アトム」というマンガに対する思い入れはひとしおでありまして、実に様々な思い出が頭をよぎります・・・

 

 私とアトムとの出会いは、私が4才か5才の頃の昭和37年前後のことですから、もう記憶もおぼろげででハッキリとしたものではありませんが、今は湖の底に眠る神奈川県の宮ヶ瀬での事・・・

 私は小学校に入学する前の3年間、父の仕事の都合で清川村の宮ヶ瀬地区に住んでいた事があります。
 そこでたまたま目にした古紙回収のリヤカーに積まれた古雑誌の中に、1冊の小冊誌があるのを見つけ、子供心にも目を引く表紙だったので、つい出来心で失敬してしまったのが「アトム誕生」というタイトルのマンガでした (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 それがアトムとの出会いだったんですが、当時から本を読むのが大好きだった私は、すでにひらがなやカタカナは普通に読めましたし、昔のマンガは実に丁寧に作られていまして、フキダシの中の漢字には全てルビ(ふりがな)が振られていましたから、小学校に入学する前の私にもマンガの内容は良く理解できました (^^)v

 

 その後、小学校に入学するために会津に戻った私は、いとこの家で鉄腕アトムのアニメを見てすっかりはまります (^_^ゞポリポリ

 時を同じくして、昭和39年の9月号から毎月「少年」というマンガ雑誌を購読するようになり、そこに連載されていたのが「鉄腕アトム」であり、「鉄人28号」という、当時を代表する作品です (*^.-^*)♪

 

20151015002 さらに、アトムの思い出は続きます・・・ (^^ゞ
 喜多方の高校に通っている頃、朝日ソノラマから月に2冊程度のペースで鉄腕アトムのコミック全21巻が発売されることを知り、乏しい小遣いの中から買い集め始めました。

 もともと私は漫画好きだったのですが、コミックを買って読んだことはありませんで、鉄腕アトムのコミックが全巻揃ったことがきっかけで、小学生の頃に読んだものの、読み損ねてストーリーがつながっていない昔のマンガをコミックで通して読みたいという欲求が芽生えてしまいます (;^_^A アセアセ・・・

 で、高校を卒業し、江戸川に出て働くようになると、古本屋を回って昔読んで夢中になったコミックを探して買い集めるのが楽しみになりまして・・・(笑い)

 そうして20年以上も古本屋でコミックを買い集めた結果、2千冊を超える膨大な数になってしまいましたが、現在のアパート暮らしを始めてからは置く場所に困り、全て実家に持ち帰って保管しています (^◇^;)

 

 何事にも最初があるワケですが、漫画を知ったきっかけがアトムなら、漫画のアニメを見た最初もアトム、漫画雑誌の定期購読を始めたのもアトムが連載されている雑誌が最初で、コミックを買い集めるきっかけもアトムのコミックという事で、「鉄腕アトム」が私のマンが人生に占めている比重は決して少ないものではありません (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

 以上、たわいもないハナシではありますが、私とアトムとの浅からぬ縁を語ってみました・・・ (〃⌒∇⌒)ゞ ♪

 

20071128001  蛇足ですが、「下條アトム」という俳優が居ます。
 これは芸名ですが、本名も同じ「下條アトム」です。
 しかし、有名な「鉄腕アトム」とはナンの関係も無いことは意外と知られていません (^◇^) 。。。ケラケラ

 

 父親の下條正巳が、戦後間もなく生まれた我が子に、原子を意味する英語の「Atom」から名付けたといわれています。
 下條アトムが生まれたのは昭和21年で、「鉄腕アトム」が連載されたのは昭和27年からですから、無関係な事は明らかです (^^;

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